昭和五十四年五月二十四日  朝の御理解 


御理解第六十七節 「何事もくぎづけ出はない。信心をめいめいに しておらねば長う続かぬ。」


 確かに信心は釘づけであってはならない。一つの事を体得する。覚えたと言うたからと言うて、それでよいと言う事ではない。次の信心が必ずあるはずだ、と、ね。もうあつてはならないと思う。釘着であってはならないと思う。ね、信心がやはりお育てを頂く、と言う事と同時にやっぱり育とうと言う、こちらが願い、意欲をもたなきゃならない。そのためには、やはり今まで全然感じてなかった、とか分かっていなかった事の新しい分野に向かっての言うならば、挑戦であり言うならば未知乃世界なのですから、ね。場合には危険を感ずるような事があるかも知れない、通った事のない道なのですから、ね。そなために今、合楽で言われる実験、実証、一回実験したらそれでよいと言う事はない。何回も、何回もそうだと、そうだろうと心に感じ出したら、それを実験してみる事だ。ね、して繰り返し実験して、それが意までの信心よりも大きい、今までの信心よりも不快と言う事が分からせて頂いたら、そこに深い、広い、信心が体得出来る事になるのです。勿論おかげもだからそれに伴のうて、広くもなれば、深くもなる事になるなですから、絶えず言うなら、新たな信心へ挑んでいくと、言うね、取り組んでいく、そこに実験、そして実証を得て初めて、これが本当だつたと言うところには、より大きな、より豊かな、より立派なものになつていかなきゃならん事であります。只、新しい事だけを言うておる、と言うことではない。
 私は昨日から、ここ二、三日頂いておりますように、神も喜び、金光大神も喜び、氏子もの喜びと言うのが本当に、神様が果たしてこれで、喜んでおって下さるかと言う事をたしかめなきゃいけんと。
 なら、もっと大きく、広く神様が喜んで下さると言う事が、とりも直さず金光大神が喜んで下さる事に、違いはない、ね。そこにはなら、自分もその喜びの中に所謂、おかげの中に浸る事賀出来る。より違ったおかげの世界に住む事が出来るんだ、ね。そのためにはやはり言うなら新たな、より本当な事を頂いたらそれを、いよいよ実験して見る事だ。
 夕べのお月次祭にも聞いて頂きましたように、これは当たっておるかどうかわかりません。だから実験しなきゃわからんのですけれども、昨日、研修しながらこれは泉尾の信心は、いよいよもって、言うならば泉尾の先生の御信心が、大きく、広くなっていかれるのは素晴らしい。言うならば、神の願いと私共との願いとの、一致点を出すことのためにです、所謂コントロールと言う事、ね。神様の世界と自分共の心の世界とが調和すると言う事。その世界が限りなく、神様の世界と言うか分野というのは限り無いのですから、確かにそう言う世界があるんです。もっとおかげの頂ける場を広めていくこのために、この、その内容をいよいよ確かめていかなければいけないと言うふうに思うんです。同時に阿部野の御信心がま、有り難い、有り難いの一念と言うか権化のような御方だと、もう一切を有り難い、有り難いで受けられる。と。そりゃ、あんた困るなあ、と、言うような所がない。おかげじゃ、おかげじゃと、しかも芯からおかげじゃと思いなさる所に阿部野の伊藤こう先生の信心があるんだな。とこう言うふうに極めた訳じゃないけどもそれを、確かめてみたいと言う気がしきりにするんです、ね。今朝、私は夕べからその事を思わせて頂いておったら、今日の御理解、『信心は釘着であってはならない』と私の思いと言うものが間違いが無いと、言う事は今日のこの御理解を頂いた事によって、間違いが無い事が分かった訳です。もっと素晴らしいコントロールの名人にならなきゃならない。もっと素晴らしい、も、口で有り難いじゃなくてもう、心の底から有り難いと言えれる内容を頂いていきたい。
 どうも泉尾と阿部野の信心は、この徹底されたものであろう。これがいよいよ研き上げられたものであろうと言うふうに思う。
 私はいつも皆さんに聞いて頂くようにね、も、とにかく喜びで受ける以外にない。
 『この方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせん』と仰せられるのから、もう一切を喜びで   、もうだから本当に一切を喜んでいくと言う所にです、私は一つのある意味での危険を感ずるんです、ね。新しい分野なんですから。
 なら果たして今まで本当に一切を有り難いと受けられる事もあれば受けられない事もある。例えてもうしますと、今日私は御神前で、昨日の月次祭の時にお魚が沢山出ましたね。ブリが三本か四本か出ましたでしょう。タイが五枚か出ました。大きなタイが。ね、大盛に出てましたでしょう。昨日は何とはなしに大盛が淋しかったでしょう、ね。いつも大盛が五台も六台も出るのに、昨日は大盛が四台か五台かでしたですね。魚ともに五台位やったでしょう、ね。
 実はねこの前な月次祭にその、久富先生がおられなかったものですからね。冷凍してあった魚が出してない訳です、ね。それでなら、私としては今日はお魚が出てなかったが、どうした事だったかとこう、それが忘れとりました。とこう言う。他の先生方はそれでなら、ま、冷凍してあるから大丈夫ですから、この次の月次祭にだしましょう、と。だから、もうどうしても、なーんもない訳ですね。ああ、これは神様の御都合だ、これはおかげだと、もう、その時点で頂かなきゃいけないわけでしょう、ね。折角お供えが来とるとに、あんた出しもせんな、こんな立派な魚が沢山来とるとに、と言う事も責める事もいらないです。もう、その時点でね、ああ、神様の御都合に違いない。これはもうおかげ。それでなら、昨日の月次祭が淋しかったから、今までにない沢山の魚の大盛が出て、何とはなしにお祭りが賑やかに、生々となったわけ。神様がちゃあんと心つもりがあっての事なんだ。忘れさせてござるのである。だからどうしてわすれたかと言う事はいらん、と言う事になる。私がそう言う意味でね。徹底したいと思う。もう、その時点、時点で、いやあ、おかげね。それこそどんな土砂降りの中に霊祭が仕えられた。本当に私の不徳のために霊神様にも相すまん神様にも相すまんと言うような頂き方じゃなくてですね。おかげで足を汚さんですんだと伊藤先生はもう、それだけを仰るそうです、ね。
 土砂降りだから困ったとも、神様にも相すまんとも言うちゃないです。只、もうお礼を申し上げる以外ない。と言う生き方をいよいよ私は、所謂、その実験に入りたいと思うのです。だから皆さんも私といっしょにね、その実験にはいって下さい。所謂、コントロールしていくと言う事の、もっと、もっと微に入り、細にわたつて、そしてコントロールの結果と言うものは、安心と言うものが出らなきゃだめです。
 これは昨日頂いとったけど、皆さんには聞いて頂なかったけど、あの傘のこう柄がね、入っとるばってん、こう只、入っとると言うだけで開かれない、と言う感じの御心眼を頂いとりました、ね。だから自分の信心出、コントロール賀出来た、言うならば本音と建て前と言うものがです、コントロール出来たと言うふうに思うておっても、そこに安心がなからなければ、それは本当の、完全なものじゃないんだと言う事。ね、完全なものでないとすると、されはどういう事になるかと言うと、ドライでありそれは割り切った考え方だ、と言う事になるわけです。本当な事はそこにコントロールが出来たら、安心が生まれなきゃならん。喜びが生まれなきゃならん。お礼の心が生まれてこなければならない、ね。だから、そのコントロールと言う事の答えはです。私共の心に安心と言うものがなかなければ、本当のコントロールじゃないと言う事と言う事を極めていきたい。
 『この方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせん』と教えられるから、何でん喜びで、喜びでとこう、ね。
 昨日、久留米の稲垣さんが車を止めておられるところへ、後ろから来た車が追突した。で、自動車が、ま、ひっこんだわけでしょう。もう全面的に先方がわるいから、わざわざ昨日はあちらの方から見えて、もう本当に相すみませんでした。全面的に私の方が悪いなだから、修繕ですかね、は私の方から見らせて頂きますからと、「いいえ、そんな事はいりません」と言わっしゃったげな。もうおかげ頂いて私共はどうもしとらんじゃった。おかげ頂いとるとじゃけん、そげな事いりません、ち。そしたら、あなたのような人に会うたのははじめてじゃと、言わっしゃつた。ち、ね。
 言うならばこういう事になったけれども、それこそ、んならムチウチ症的な事になっても仕方がない事だけれども、もう、何にもなかった、なんでもなかった。何人も乗っておられたのに、ねだからもう、おかげ頂いとると言う事だけしか、稲垣さんの頭の中にはなかったですね。それでも、いいえ、そんなわけには参りませんから、と言われるなら勿論、それは受けても、されましょうけれどもです。いいえ、そんなことはいりません。もうおかげ頂いとるのに、ですから。と言わっしゃったそうです。
 夕べその事を、聞かせて頂いて、そこまでやっぱりすっきりしなきゃいけませんね。ま、それは当然な事、先方が柄悪いとだから、当然な事だと言うような、頂き方じゃなくて、も、おかげ頂いた方が強い、と言う事になって来るわけです。そこから生まれて来るものは大きいです。だろうと思うのです、
 まずそういう意味での実験をね、私はそういう実験に一つ徹してみたい。ひょっとすると、言うなら実験しそこのうて、言うならば新しい分野ですから、失敗に終わるかも分からない。
 けどもこれに、この実験に徹したい。言うならば、本音と建て前の、所謂コントロールと同時に本当に一切が親愛だとね。どうして忘れとった。折角、きとったのに、と言うような事は、もう、言うわん、思わんと言う事である。もう、その時点で、これは神様の御都合に違いない。なるほど、十八日から二十三日の月次祭にお供えに、出してみて分かった事は、ね。言うならばこの大きな魚の大盛がなかったら、あの魚の大盛で言うならば生々としてきた。と言う感じ。神様がちゃんとね、神様のもくろみの中にあったんだと言う事を、お月次祭頂いて分かった、ね。そこには責めることも、どうしてと言う事もないだけの、そう言う言うなら有り難いと言う事だけの世界の言うならば実験を試みて、私もその生き方でいくから、皆さんもね、その実験に一つ徹して見て下さい。ね、皆で実験していく時に合楽全体が、ね、言うならばもっと有り難い世界が開けるわけになるでしょうと思うのです。ね。
 信心は釘着ではないと言う事は、そう言う事じゃないでしょうか。ね、次の信心、次の言うならばまだ見た事も聞いた事もないおかげの世界に入りたいならば、ね、まだ今まで、かって思うた事も、した事もなかった修業にも取り組ませて頂いて、ね、いよいよ実験、そしてそれがおかげの実証が出来た時に、私な信心はまた、一段大きくなる。一段有り難さが深いものになってくると、言う事になるのじゃないでしょうか。皆さんもいっしょに、そう言う実験を本気でなさって頂きたいと思います。    「どうぞ。」